昭和五十一年 五月二十一日 朝の御理解


御理解第五十三節「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」


 昨夜は菊栄会が終わったのがもう十二時でしたでしょうか、まあとにかく終わってそれから高橋さんと文雄先生と正義先生が三人で部屋にいつもやってまいります。そしてまた信心の四方八方話で、それから文雄さんと正義さんが必ず両足を足を一本ずつもみあげて帰られる、帰られるころには私はもう眠りについておる。もう本当に何というですか、もう本当に有り難い。それでいて今朝の三時十五分にはちゃんと目覚ましのおかげを頂いて三時半にはこちらにやらせて頂く。
 幹三郎と栄四郎が一緒に御用してくれます。四時になりますと光昭がお迎えに出て来てくれます。四時からきちっと御祈念に入らせて頂きます。五時二、三分位前に御祈念を終わってここ御結界に座らせて頂きます。若先生が五時の御祈念の何分か、それこそ何分かではあるけれども前に出て来てそこに座っております。五時ともなると若先生の御祈念が始まります。もうすでに総代さん方幹部、修行生の方達全部大広前に出て来ております。家内なら嫁達が大広前に出て来ます。必ず私はこうやって眺める、家内がすみの方から御祈念をさせて頂いております。そしてこれからこの様に御理解を五時半にいうなら若先生の御祈念が終わってそれからこの様にして皆さんに今日の御理解を聞いて頂く。そうすると総代さん方が皆で出て今日一日のお取り次ぎを願うてくださいます。教会全般のことについてのお取り次ぎを願ってくださいます。それから久富茂雄さんが毎日お初穂の整理をしてくださって、私がここを下がる八時半頃までにはそのお初穂の整理が出来ております。それから茂雄さんの奉仕を受けてお茶を頂きます。そして私と家内と高橋さんと茂雄さんで朝食が始まります。朝食が終わりますと、茂雄さんの奉仕でまた足を揉んでもらいます。
 今日は例えば私の一日の動きがそのまま今日の間違いなく、それは天地日月の心のようにくるいなくおかげを頂いておるという時ほど私は有り難いことはないと思います。ね、例えば菊栄会が終わります。私は心待ちに待っております。けれどもこうやって覗いてみたばってん寝とんなさるごたったけん御無礼しましたち言うて明くる日言うようなこともあるわけです。そして三時半にこちらに参りましても栄四郎もでてきてない、幹三郎も出て来てないような時もあるです。もちろん四時の御祈念に狂いはございませんけれども、ここへ下がらせていただいても五時五分になっても五時十分になっても若先生が出て来ないことがあります。それこそ走りはためきして、なら五時十五分位から御祈念に入るといったようなこともあるのです。こうやって見てみると、家内が出て来てなてこともある、嫁達が出て来てないこともある。修行生のだれかれが座ってないこともある。ね、ああ今日は茂雄さんがきちゃないなという時もある。そこにです、いうならば私の信心のいわば狂いと見るわけです。どれが一つかけても私自身の信心の狂いと見る。ね、そしてなら出て来てないから責める気はさらさらおこりません。お前は昨日の御祈念に出て来てなかったじゃないかと家内に言うたこともなからなければ、子供達に朝の御用が出来んでどうするかと、朝の御祈念がいくらか遅れたじゃないか、お前たちの御用はそれ以外にないのだからといったこともありません。
 ね、ただし昨日昨夜から今朝までのことを皆さんに聞いて頂いたが、それこそ一分一厘の狂いなしに私の願い、私の思い通りにそれは天地日月の心、天地日月の運行そのものに合楽の教会に間違いのない働きが起きておるという時ほど有り難いものはない、いよいよ信心の節度を大事にして、信心の節度を守らしてもろうてこのような節度のある日々おかげが受けられる、そこに合楽教会大発展のもとがあり、合楽教会がそのようにして天地日月の心、日月の心そのままに動いていく、いうならばそういう運営がなされていく。そこにお引き寄せを頂くあらたな難儀な信者さん方がです、間違いなくきちっとおかげを受けていくことは間違いないのです。
 ところが昨日から今日のことを聞いて頂いたが、いつもこのように間違いがないというのではないのです。ね、自分の信心の節度というものをお互いが持たなければなりません。天地日月の心になるということは、もちろん天地の心を心としてという生き方、いよいよ豊かになろう、大きくならせて頂こう、無条件の奉仕をさせて頂こう。というように神の心を心とする生き方をいよいよ身につけながら、そしていい加減なことではないいわゆるきちっとした私の心情通りの日々が繰り返される。どこに一つ歯車が狂うても大きくその働きは変わってくる。
 これは小さい私大坪総一郎が信心が小さい一つの歯車でありましても、今申しましたように日々の例えば合楽教会の運営についてもです、間違いなく狂いなくそういうおかげを頂いていかなければならないのだけれども、なら毎日がそのようなわけにはいかんのです。例えば朝の御祈念に出てくるでも寝忘れということがあったり、何かの都合があって出て来れなかったり、いうならそこのところを私自身の信心の節度の狂いとでも申しまょうか、自分の信心の欠けておるということを感じてそこにお詫びの信心があるのです。詫びれば許してやりたいのが親心とおうせられる、もう狂うておっても狂わないと同じおかげを頂かせて頂かなければ大変なことです。ね、足りないところを埋めて行くという生き方です。この歯車が一つでも狂うたら大きな働きにさしさわってくるのです。
 ですから教会長を中心に今申しましたように皆さんの信心もです、やはり狂いなく、間違いなく信心の節度を皆さんが守らせて頂こうという願い、意欲のもとに信心が続けられる。知ったおかげより知らぬおかげが多いと、お願いをしておかげを頂くそれはもうみんながおかげというけれども、そこまでにおかげを形の上にまで表してくださることの働きの目の見えないところにどのようなたくさんの神様のお働きを受けておるか分からんのです。今日はたまたまです、昨夜からずっと今日ただいままでです、狂いのない合楽教会の動きというのを聞いていただいたんですけれども、ね。
 例えばそこになら一人菊栄会なら菊栄会の時に、なら文雄さんが今日は御無礼しておりました、今日は正義さんが早く帰りましたということにならんとも限らんのです。けれどもそうして間違いなくいつものようにただもう毎日同じ変わらないということほど素晴らしいことはないのです。それが平凡であれば平凡であるほど実は非凡です。そんなに間違いのないということはもう奇跡というてもいいくらいに不思議なおかげです。その不思議なおかげがあらわれるまでにはです、ならどのくらい神様の働きを、今日申しました昨日から今日までの神様の働きということの中にどのくらいの微に入り細にわたってのお働きがあっておるか分からんその働きを感じ取らせて頂くということが目に見えるおかげだと私は思うです。
 例えば茂雄さんが四、五日ですかね、体が悪くて休まれた。今朝出て来ておられるということだけでもです、もちろんこれから色んな御用が続くわけですけれどもその御用がきちっとできるまでに、ここまで出て来られるまでにどのくらい神様の働きを頂いておるのか分からんのです。総代さん方が揃うて日々のお取り次ぎをなさるが、どの人がどれが欠けてもいけんのです。いけんことはないのだけれどもそれが平凡ながらも実は平凡ではなくて特別な神様のお働きを受けて皆さんが今朝の御祈念にご参拝のおかげを頂いておられるのです。だから今日も間違いなくお引き寄せを頂いてご参拝のおかげを頂いてご理解を頂いておるということ自体がです、これまでの神様の働きがです、素晴らしいのです。
 ここへこう座って皆さんが御理解を聞いて下さってある、またこのようにして日々当たり前に毎日のことですけれども日々頂いておるそのことが実に素晴らしい神様の微妙な働きを受けながら今日ただいまがあるわけです。そういう生き方をです、私は心寄せる感心をそこに深めて行くということがです、とりもなおさず日々お互いの信心生活の中にやっぱり神様の働きは一分一厘間違いのないねと言うておれれるようなおかげが頂けてくるもとになると思うです。
 そこんところの節度を崩したら、ね、おかげもやはりばらばらになってきます。天地日月の心になること肝要とおうせられるが、確かに日月の心になること肝要、ところがお互い生身を持っておりますから出来たり出来なかったりのところがありますけれども、出来ないところはです、詫びれば許してやりたいのが親心じゃとおっしゃるのですから、詫びてそこんところのきちっと節度が守れなかったところは私は詫びて埋めて行かなければ前には進まれんという生き方だと思う。
 神のおかげを知らんから互い違いになるというまあ昨日の御理解の中から、不思議なことにあれほどしに飛ぶ鳥落とすような御比例を頂いておられた教会がそれこそ閑古鳥が鳴くように寂しゅうなっていくという事実があるというのはどういうことだろう。あれほどのお徳を受けられた先生のところでどうした二代、三代になってまあ信心がない者の上にでも起こらないようないまわしい問題が起こったりするのだろう。そのことを昨日は聞いて頂きましたね。
 それこそ本当にすさまじいまでの表行をなさってそれこそ火の行、水の行位なことではない、本当に人間生身をもっておってこれ以上の修行はできまいというような表行に徹しられておかげを受けられた教会。もう祈念力、もうこの方の祈念力の右に出る者はおるまいと言われるような素晴らしい祈念力によってたちどころに難病、難儀がつくり助けられていったといったような教会。もうそれこそあちらの先生はぽくぽく、見通しと言われるような霊徳を受けられてたくさんの人が助かった教会。
 その教会がどれもこれもがみんな例えば、ね、閑古鳥が鳴くといっては失礼ですけれども、昔の色は冷め果ててしもうて生き生きとした何物も感じられない教会にもし成り果てておるというようなところがあるとするならです、これは金光様のご信心は考えなければならない。教組様は代勝り、ね、年勝り代勝りのおかげが受けられる、家繁昌子孫繁昌の道じゃと教えて下さるのにもかかわらずどうしてそのようなことになってくるのであろうか、教祖様はうそを教えておられる。
 そこで私は合楽のこれは一つの責任、おかげを頂いておる責任においてです、教祖様はうそをおっしゃってはいないと教祖様のお言葉を実証していけれるおかげ、御比例を頂いていかなければならない、それは若先生が心配しておるように初代の時にはそうだったけれども二代は中々難しい、三代は尚更難しいといったような考え方を捨てて、そして今ただ今申しますように実に平凡なことだけれども、日月のような心を自分の信心に頂いて表していく、そういう生き方がです、身につけられていく限り合楽教会万々歳ということ、それはどういうことかというとなるほど金光様、教祖様は嘘をおっしゃっていないという実証のほかにないのであります。
 ね、だから合楽のような信心をさせてもらえば誰もがおかげを受けられるんだ、誰もがお徳を受けられるんだ、親の代よりも子の代という繁昌のおかげにつながっていくんだというね、皆さんが確信をもって合楽の信心を体得しようという精進をなさることになる。それは実に見やすいことである。合楽の信心は成り行きを尊ぶ大事にする。そのあなたの前に起きてくるその問題そのものをおかげとして頂くということ。またおかげなんだからおかげと分かるということ。おかげと分かるから互い違いにならんわけです。信心しよってどうしてこうしてこんなことが起こってくるじゃろうかと分からんからそういう不平不足が出てくる。信心して分かれば分かるほどです、それが間違いのない神様の働きということが分かってくるからおかげと分かるから、ね、神のおかげをおかげと知らぬから互い違いになってくるです。
 ね、二代になって三代になってなくなるというようなことになってくる。互い違いになってきて。神のおかげをおかげと知らんから、だから神のおかげをおかげと分からなければならないそれがおかげだぞと、まああらゆる角度からそういう意味でのおかげを聞いて頂いた。だからそのおかげということにはです、まず甘木あたりで頂かれたように天地の御恩徳をいよいよ分かられてです、天地の御恩恵、いわゆる天地が恵んで下さるところのおかげに感謝する生活、そういう信心を甘木では強調されたと私は思うんです。
 合楽では事柄、その事柄の全ての中に御の字をつけて御事柄として受けて行くという生き方を皆さんに聞いて頂いておるわけです。ね、だから神様のおかげと分かるということ、ね。そこでなら今日おかげということをもう少し深く分からなければならないということがです、信心しておれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多いとおっしゃるおかげが段々分かっていくところの信心を身につけていかなければならないということをです、昨日から今日にかけていうならば合楽教会の上に私を中心とて回っておる働きの中に狂いなく間違いなく行われて今日ただ今があることを昨夜から今朝までのことを聞いていただいたわけです。
 そしてそういう働きがです、起こる前にです、昨日文雄先生と正義先生が私のところにやってきて足をもみ上げて帰ったということがです、どちらかに何かが故障があっとれば来れなかったことになるんです。だからそこまできて足がもめれるという、私は足をもんでもらえるというまでにはどのくらいまでの神様の実をいうたら微妙な働きを受けておるか分からんだから足をもんでもらいながら有り難い、もったいないということになってくるんわけなんです。
 間違いがないからこそ、なら今日ね、私が五時に五時の御祈念を終わらせて頂く、間髪をいれず若先生が五時の御祈念を奉仕してくれる。家内も出てきておる、嫁達も出て来ておる、修行生も全部出て来ておる、総代さん方もみんなお参りができておる、ね、こういう例えば間違いのないいうならばよは満足じゃというところでしょう、ね、普通でいうならば。けどもこういう間違いのない働きが起きる前提としてです、例えばなら若先生が五分間寝遅れておったといたしましょうか、そして走ってやってきたところがもう五時五分であったというならば私は今日のご理解は説けないです。
 ね、そして私はそのことをまた詫びておぎのうていく信心が必要なんです。そういうね、私は今日は目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い、ここまで皆さんがお参りができたというまでにはです、どのくらい神様の働きを受けてお参りができたかということをです、まずは思うてみて今日もつつがなく朝の御祈念にお引き寄せを頂きましたことをです、まずはお礼を申し上げねばならんということが皆さん分かるですね。そのお礼が申し上げられるそのことがです、目に見えるおかげより目に見えないおかげが分かったということになるのです。昨日からです、おかげがおかげと分かれば互い違いにならんとおうせられるのですから、今日はね、一昨日から今日にかけて、いわゆる神のおかげの実態とでも申しまょうか、それを微に入り細に渡って私共が感じさせてもらう、それを気づかせてもらう、そこから神様と私のそれこそ間違いのない交流が始まるのです。そこから良いものが生まれてこないはずはないです。ど〓そ、おかげいただきました。